震災後記 救援物資を運んだ話 その1
早めの判断で逃げたので、私たちは震災の苦労は一度も味わっていない。
埼玉県の社長の実家にお世話になりながら、社長と社員とで原発事故の分析を
ずっとやってきた。
報道はとてもじゃないけれど、全部を信用することはできなかった。
「どこまでがホント」で「どこまでがウソ」なのか、テレビやインターネット
や現地に残った人達とのやり取りを通じて自分達で分析してきた。
たまたま原子力に詳しい人が2人いたのも役に立った。
飯舘村は早急に避難するべきという見解も自分達は早々に出していた。
ドイツのシュピーゲルの情報で放射能拡散予測も事故後1週間後ぐらいには見ていた。
戻るべきか、福島を捨てて関東圏での再起をかけた動きを起こすべきか
ずっと考えてきた。
原発のニュースににらめっこして、侃々諤々しながらも生活は安穏だった。
衣食住は社長の実家が全部面倒を見てくれた。
一緒に逃げてきた社長の3人の子供達と遊ぶのも楽しかった。
だけど、何かが違う・・・・。
自分達だけが平和な暮らしをしていることにストレスを感じはじめていた。
新入社員は1月末に福島に引っ越してきた人ばかりだから、知り合いも
少ないし福島への愛着はそんなに強くないけれど、社長をはじめ、福島県に
長い間住み続けた人はお世話になった人も多い。
「地元に残った人間は食料が無くて苦しんでいる。自分達だけが安穏な
生活を送っていて申し訳ない」という気持ちをずっと持っていた。
特に南相馬市原町区は「屋内退避地域」になったため、放射能にびびった
運送トラックが入ってこなくなり、「陸の孤島」になってしまった。
ガソリンも無くなって来たので、避難も出来ないし、食料を遠くに買いに
いくことさえ出来ない。
たまにガソリンが入って来ると、それを手に入れるのに長蛇の列ができて、
結局ガソリンを手に入れられずに帰ってくることになり、残ったガソリンも
どんどんなくなっているのが現状だった。
現地の人の声を聞くと「米と水はふんだんにある。」「それ以外の食料は
何もない。」ということだった。
私達の安穏な生活がストレスになり始めていた原発事故後10日間が過ぎた
頃になり、多少の被爆は覚悟してでも救援物資を届けに行こうということに
なった。
会社において来た数台の車を埼玉に持ってきて、もしもの場合に関東圏で
仕事を再開させようという思惑もあった。
社長はうちの現地の人と連絡を取り、必要な物資や受け取り方法などを決めた。
現地の情報から、食料に困っているのは避難所ではなくて、残された個人の
住宅(特に老人だけの世帯)だとわかっていたが、個人のお宅を回るのは
やめてくれと市の方からお願いされました。
市職員も避難した人が多く、今残っている市民たちの管理だけで手一杯
なので、避難所に救援物資を届けたら早々に帰ってほしいとのことでした。
たとえば、市の知らないところで再び生活を始められて、水道漏れや火事や
事故が起こっても消防隊自体が解散してしまったので対応が難しくなる
とのことでした。
そして、避難所に救援物資を配ることと、避難所の人たちは10日間も
風呂に入れていないので、うちの会社は6人ぐらい一緒に入れる風呂が
あるので、そこに希望者を入浴させるということまで決まりました。
議員さんが動き回ってくれて、100名の希望者があったようです。
放射線量が高くなるとされる雨の日を避けて行く日にちを決めて、
いよいよ埼玉県のスーパーを回ってみんなで買出しに行きました。
その頃は関東でも買占め騒ぎがあり、何件も回って品をそろえました。
社長が一人で出した30万円分の食料をかき集めました。
主におかずや麺類や野菜などですね。
それをマイクロバスに詰め込んでいよいよ出発です。
正直怖かったです。
というのも、埼玉県から南相馬市に行くためには飯舘村を通る必要が
あったからです。
遠回りすれば回避できるのですが、時間がかかりすぎてしまいます。
当時はガイガーカウンターを持っていませんでした。
同行した人たちはみなマスクを2重にして、間にウエットティッシュを
挟むという念の入れようでした。
今から思えば笑い話かも知れませんが、その時はみんな
「死んでも前に進む」という覚悟があったような気がします。
車の通りの少ない夜間を選んで、私達のマイクロバスは福島へと
向かっていきました。
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