震災後期 <震災2日目>

朝方に社長から連絡があり、今日は地震が収まらないので仕事はないとの
ことでした。朝から携帯がほとんどつながらない状態なのが困りました。
(前日まではつながったりつながらなかったりでしたが、割と使えました。)
私と同じ同期が二人いるのですが、仕事中止の連絡網が回せずに困って
いました。
とりあえず、いつもの時間に仕事車のおいてある駐車場に行き、同期の二人が
やって来るのを待っていました。みなが顔を合わせると、電気とガスは使えるけど水道は使えなくて困った
という話になり、鹿島地区の新事務所に水をもらいにいこうという話に
なりました。
2ヶ月前に鹿島地区に移転した事務所は山の中にあり、井戸水を使用して
いるのを思い出したのです。

各自が空のペットボトルを大量に集めて持ち寄り、鹿島の新事務所に向かいました。

事務所に着くと社長が待っており、すぐに事務所においてある重機やバス
などのすべての車の燃料と灯油のポリタンク全てを満タンにするように申し付けられました。
(当社は林業だけでなく、知的障害児のデイケア施設を併設しているため
マイクロバスなど送迎用の車も多くあるわけです。)
今回の地震でガソリンが最低1週間は入って来なくなるだろうというのが
社長の予想でした。

そこでガソリンが不足している3台の車を給油しに、原町区の行きつけの
スタンドに行きましたが、朝8時ごろなのにすでに渋滞になっていました。
渋滞とは言っても15分も待たずに買えたので、その後の大渋滞と比べると
かわいいものでした。ガソリンは20Lまでしか買えませんでしたが。
(後から知ったのですが、このガソリン灯油満タン作戦は、後から逃げ出したい人が出たときに
車から抜いて持っていってもらおうという意図もあったようです。
実際にこれは役に立ちました!灯油は100L以上あったのが全部使われたようですし、
ガソリンも何人かが抜いていかれたようです。)

事務所に戻ると、普段できない大工仕事などを手伝っていましたが、
夕方になって水素爆発を起こした福島第一原発からの避難勧告の圏内の
距離が少なすぎるのではないかという疑念を持たれた社長の強い統率の
もと、「念のために」職員を社長の実家にある埼玉県に避難させることになりました。

「政府の発表はおかしなところがあって、信じられない。思い過ごしかも知れないが、
自分の勘が当たっているかも知れない。もしもお前らが俺の事を信じる気持ちがあるなら、
ついて来い。一旦避難しよう。」という社長の言葉に反対する人はいませんでした。
 
 
一度アパートに戻って簡単な着替えを持って事務所に戻り、夜9時半には
全員がマイクロバスに乗って埼玉県に向かいました。原発の近くは通り
たくないので、内陸の国道4号線をひた走ってきましたが、幸運にも
「早めの避難」を考えた人は少なかったようで、反対車線は大渋滞だった
にもかかわらず、前にほとんど車がないような状態でひた走り、翌朝の
4時ごろには埼玉の社長の実家にたどりつきました。
どっと疲れが出たみんなは、部屋に入って眠りこけました。
 

震災後記 <震災1日目>

3月11日の震災からもう半年以上が過ぎました。
今思うとあっという間です。
ここで改めて震災当時のことを振り返ってみたいと思います。

私は林業に就いて、震災の1ヶ月半前から福島県南相馬市の原町区に
居を構えておりました。ここは福島第1原発から30Km圏内にあります。

3月11日の15時ごろ原町区の山の中で仕事をしておりましたが、
ちょうど切り出した丸太の集積作業に従事しており、数十本の丸太の山の
中腹にいました。

大きなゆれを感じて「丸太が崩れたら死ぬ」と咄嗟に思い、複雑に重なり
あった丸太の山を下に下りるのはかえって危険と判断し、頂上まで上って
中腰四つんばいの姿勢になり手足に神経を集中させて、もしも丸太が崩れた
場合に自分が一緒に落ちないように気を払っていました。

数分間突き上げるような揺れが続いていましたが、丸太は1本も崩れること
なくどうにかやり過ごすことができました。

強い揺れの数分前に近くの池が濁ったことを仲間は見ていました。

親方の判断でその日の仕事は中止して各自の家に戻りました。

私の家は大きな本箱がひとつ倒れただけで済みましたが、周囲の人は
みな部屋がめちゃくちゃになってすごかったようです。

私のアパートは国道6号よりも内陸にあり、津波の被害は全くなく、
外壁など一部が損壊した家も周りに数件ある程度でした。

その日の夜は断続的な強い揺れを感じながら、本が散乱した部屋の中で寝る
ことになりました。水道が止まったことが唯一の悩みでしたが飲料の備蓄は
あったので大きくは心配さえしていませんでした。

テレビを持っていなくて情報が入ってこなかったせいか、大きな恐怖心は
なく、「そのうち地震は収まるだろう」としか考えていなく、次の日も
仕事に行くつもりでいました。
続く揺れに不安を感じながらも、その日は就寝しました。

 

 

信念を曲げない

先日、福島市で知り合った地平線会議の江本さんに誘われて、東京四谷3丁目の事務所に
行って来ました。
途中で電車を乗り間違うハプニングがあり、30分も遅刻してしまいました。
地平線会議とは探検・冒険する日本人を支援する目的で設立された団体です。

今度の10月22日にここで開かれる月1回の会議の席で、福島県や南相馬市の現状を
話して欲しいという依頼を受けたので、その下打ち合わせと、「チェルノブイリの今」
という高世仁というジャーナリストが作ったドキュメンタリー映画のDVDを見に行くのが
目的です。
まず、このDVDが良かった。現在のチェルノブイリ周辺の子供達が苦しんでいる姿が
将来の福島県の子供達の姿にかぶるような、そんな気がしました。

その後、色々と話をしたのですが、江本さんから聞かれたことが、
「今後、何をしたいですか?そして福島の子供達に対してどう思っていますか?」
そして僕が答えたのが、「1億円が欲しい。」

何に使うかと聞かれたのでこう答えました。
「山形や新潟など放射線量が低い所に廃校や廃ホテルなどの施設を買い取り、
毎週末福島の子供を連れてきて、思いっきり遊ばせたい。移動するためのバスも必要。
そのための費用に充てる。」

現在の福島はまだまだ放射線量が高く、至る所でセシウムやストロンチウムが検出
されています。
乾燥して埃が舞う季節になったので、放射性物質の付いた埃を吸い込んで内部被曝
する危険性との背中合わせの中で、子供達は外で思いっきり遊ばせられない状況に
あります。
子供達のストレスは相当のものです。
家遊びしかできなくて、テレビゲーム三昧の生活を送っているという声も聞きます。
悲しい事です。子供達はこの不自由な環境に対応してしまった・・・

夏に福島キッズで北海道に行きましたが、夏休みや冬休みだけでなく、できれば毎週
息抜き・放射線抜きをさせたい。
月曜日から金曜日までは窮屈な暮らしを我慢してもらう。
その分、土日はマスクを外して思いっきり遊んでもらう。
子供達の心のケアにもなります。

施設についても色々と迷いはあります。
正直なところ、線量の高い鹿島の事務所は閉鎖して、相馬市や新地町など線量がより
低いところに施設を移してあーすを再開できないものかどうか・・・・。

しかし、ここよりはずっと低いとしても、まだまだ年間1mSVには遠い数字です。
年間1mSVが保てなければあーすは再開しないというのが僕の信念です。
この信念だけは曲げたくありません。

あーすはまだ再開できないかも知れません。福島県の現状も安全だとは思っていません。
しかし、福島県の子供達が伸び伸びと遊べる場所づくりの夢を追いかけたくなりました。

もちろん、そのためのお金など持っていません。
お金もそうですが、色々な人たちの協力が無ければできない話です。
逆境ではありますが、なんとか実現させたい!