Articles from 10月 2011



ここもか・・・

あーすを開店休業にしてもう5カ月。
その間ずっと東電や、行政にはずっと移転話をしてきた。

あーすを再開したい!安全なところにに行きたい・・・
協力をしてくださいと何度もお願いをしてきました。

僕たちは4月当初から国や県の放射線値の基準に異論を唱え移転話や補償問題について
訴えてきました。
県や市は見向きもせず、国は20ミリと言っている大丈夫。避難区域外だから営業して
もいいですよ・・と。

そして5月末に放射線値が一向に下がらず補償や健康問題等にもいっこうに動こうとし
ない行政にに見切りをつけ独自の判断で利用者の受け入れをやめました。
その数日後に国が放射線基準値を大幅に下げ現在の年1ミリと発表。

行政は苦笑いでごまかすだけ・・
移転先を探してください、避難所の仮設住宅でも、学校の中でも・・
ずっとずっとお願いをしてきました。

しかしその声はまったく届きませんでした。

避難者の住宅探しといっしょで空き店舗、住宅等はまったくなし。
仮設住宅による施設移転についても市も県も言い逃れたらいまわし!
議員は役にたたず!
威張って凄んで何もできなくせに大きな顔!
いい加減にしてほしい。

今回探して探してやっと出てきた相馬市の旧市街地の中の物件。
大きさも、広さも家賃等も良かったのです。
しかし・・・

理事の一人と下見及び放射線計測をして絶句してしまいました・・
何故こんなに高いのか?どうして?・・・

室内でも0.3から0・5μ㏜あり空気中においても0.5平均。
駐車場及び生垣、花壇等については0.7から1・3μ㏜あります。

念のため理事が違うメーカーの測定器でも測定をしてくれました。
若干の違いはあるもののさほど変わらず放射線値は低くありません。

悔しさと辛さでいっぱいになりました。

子供達と早く遊びたい、またみんなで楽しく過ごしたい・・・

悩みました、考えました・・・

頭では仕方ないかとも思っています、しかし気持ちが許さないのです。

今まで信じて動き行動をしてきた事が嘘になる。自分のお金や我慢のひきかえには
絶対にしない。この信念についてきてくれる人達がいるのだから!
また必死になって探します。
諦めません!

 

 

バイク事故と現場検証

 

昨晩、新潟での仕事を終えて、南相馬市へと戻る帰り道での話。

抜け道を良く知っている社長の車の後を追っかけて、私も車を走らせていた。
高速道路を新潟から二本松まで無事に走り抜けて、あと1時間半で南相馬市の自宅に
戻れるという少しホッとした時間帯でもあった。

国道4号線を走って行き、川俣町の方へ曲がろうとする直前、ちょうど二本松市から
福島市へ入った直後の事だった。
時間は午後7:55分ごろだったと記憶している。

前の方に左折レーンへの渋滞が見えた。
ほどなくして前を走っていた社長の車が減速するのが見えた。
社長の車のすぐ右手、道の中央には、携帯で電話をしながら倒れている人を
抱きかかえている男の人の姿が見えた。

どうやら事故が起こったようだ。

社長の車と合わせて道路の左端に停車させて、倒れている人の所に向かった。

大きな男の人がうつぶせ状態で頭を抱えながら倒れている。
血が飛んだ後があった。
被害者が車に轢かれるのを防ぐ為に体を起こそうとしながら、携帯で救急車を
呼んでいる第一発見者の男の人がいる。
その後に駆けつけた女性がいる。
僕たちが駆けつけて、すぐに誰かが発炎筒を道路上に焚いてくれた。

社長は即座に、被害者の元に駆けつけて、呼吸があるのを確認した。
そして、被害者を動かそうとしている第一発見者の人に動かさない事を指示した。
動かして、流血が気道をふさいだりする事があるので、呼吸が確認できたので
あれば救急車が車では動かさない方が良いとの判断だった。

これはバイクの事故だった。前方、300mぐらい先に大型バイクが横転していた。

社長の掛け声の下、私と社長ともう一人の人で道路中央に転がっているバイクを
道路わきに移動させに行った。後続の車が新たな事故を起こすのを防ぐための措置だった。
事故後の検証でバイクの向きが分かるように置いた方向にも気をつかった。

その後、社長より、発炎筒が被害者から割と近くにあるので、もっと遠い所にも
置くように指示されたので、それに従った。

その後、社長が被害者に寄り添って、「大丈夫か?」と話しかけ、「今、救急車
を呼んだから少し待ってな。」と励まし続け、被害者に手を握るように働きかけた。
相手の意識が「生」の側に留まらせるために大事な措置だったと思う。

正直なところ、駆けつけた人達はやる事が山積みで、軽いパニック状態に陥っており、
自分の役目を果たそうとはするものの、被害者や周りの交通に対しての適切な処置は
取れてなかったと思う。
2番目に駆けつけた女性も看護士さんのようだったが、被害者の脈を計るのに
精一杯で、その人を生かすために何をすべきかというところまで見えていないよう
だった。

このピンチの状況で、適切に判断して周りに指示を出しながら自ら動いている社長の
姿を見ながら、不幸な事故現場で不謹慎かも知れないが、私は「この人の側に居れば
死なない」と思った。何があっても死地は乗り越えられそうだと確信した。

その後、社長は被害者の身元を確認して親兄弟の所に連絡しようと身分証を探して
いるところに、被害者の会社の同僚が駆けつけたので、彼に連絡をしてもらった。
同僚の話によると、会社を出た後、横からスピードを出して抜いていく被害者の
姿が見えたと言う、その後、しばらくして、人が倒れているのとその先に転がっている
大型バイクを見て、被害者が自分の同僚である事を確信して戻ってきたという。

その後、救急隊が駆けつけて、被害者を搬送し、駆けつけた警察の支持の下、
第一発見者の人と現場検証に立ち会った。

どうやら、接触事故とかではなく、被害者が運転操作を誤って起こした自爆横転事故
らしい。
フルフェイスのヘルメットが脱げてしまった事も、被害を大きくさせた。
第一発見者の人は左折レーンを走っていたら、右横から火花を上げながら滑ってくる
横転バイクに追い抜かれた事で、事故に気づいて後ろを振り返ると倒れている人の
姿が見えて、車を停めて駆けつけたそうだ。

その後、携帯で救急車を呼びながら、被害者が後続の車に轢かれない様に、
後ろの車へ合図していたのに、多くの車は無視して脇をすり抜けて
走り去っていったようだ。
社長が数十m後ろで気が付いて、窓を開けて「バイク事故だ。手伝ってくれ」
と言う声が聞き取れて、状況がわかったので助けに入ったという事だ。
私などは被害者の所に来る直前まで、何も気づかなかった。
一人だったら通りすぎていたかも知れない。

しかし、不幸中の幸運だったのは、被害者に寄り添ってくれた第一発見者の人が
ベージュの服を来てて夜でも確認が出来たこと。
被害者は黒い服を着て道路上に横たわっていたので、彼がその場に駆けつけて
なかったら、後続の車に轢かれていた事だろう。

第一発見者の人も後続の車が全然とまってくれなくて轢かれるかと思ったと何度も口に
していた。
そして発炎筒を焚いてくれなかったら自分もどうなっていたかわからないと。

被害者はまだ25歳ぐらいの青年だ。
かなりの重症だったので生死の程はわからない。
息は確認できたが、だんだん弱くなってきたので心配ではある。
しかし、後続の車に轢かれなかったという運の強さはあるし、社長が事故現場に
出くわして救出にあたれた事も運の強さだと思う。
ここまで運が味方していろのだから、どうにか生きていて欲しい。

 

 

 

 

 

 

忘れ去られた3・15事件

3月15日の福島原発の爆発事故より、もう7カ月が経過した。
日本中どこにいってもよその国で起きたかのように人は普通に生活している。

新聞もテレビもすっかり過去の事のようになってきている。

みんな本当に無関心で、自分達には関係ない福島は遠く離れたよそで自分達には全然
関係ないと・・
本当にみんな大丈夫?なんですか?
国の発表によるセシウム等の汚染は千葉県、群馬県、栃木県、新潟県、東京都、埼玉県
静岡県など・・今はどんどん広がっているんですよ!

いまだに原発からは沢山の放射性物質が大量に出て空気が汚染され、山や大地が汚染され
続けたらどうなるのか?
考えた事はあるのだろうか?よその国で起きた事ではないのです。

同じ日本です。

みんな忘れないで欲しい!もっと考えてほしい!
日本の未来を!自分たちの未来を!

チェルノブイリでは25年たっても終息せずいまだに原発は放射能を出し続け管理
されている。
健康被害も5年後から発症、新生児にも多くの被害が現れている。

今の日本でも 川や海、野菜、コメ、キノコ、お茶、牛からも放射性物質がでてきてる。
それでも本当にみんな安心なんですか?同じ日本ですよ。

これからますますよくない状況になると思うと辛く悲しくてなりません。

今後ますます空気が汚染され、大地も汚染され、被害は広がって行くでしょう。

今の原子力政策は確かに悪い事だけではなく良い事もあったでしょう。
でもみんなわかっているはずです。どうしなければいけないか、自分達の国や社会を
変えることができるのは自分達なのです。

未来の日本の為に子供達の未来の為にそして自分の未来の為に忘れないでください!
福島は日本です!原発を作ったのも日本人です!

ひとりひとりは小さくてもみんなが、安心して生きていかれる環境つくりの為の努力や
行動をとればかならず大きなかたちになる!
僕はそう信じています。

 

ダンプ WITH ME

私が災害復旧で乗っていた2tダンプにもついに車検の時期が来た。
 
 
 
扉を閉めてもすき間があって、大雨が降ると雨漏りしたり、
ギアが固すぎて1速~3速がなかなかうまく入らなくていつもビビりながら運転していたり、
雨に弱くて少しぬかるんでくると動かなくなり、他のダンプ仲間よりも真っ先に リタイアしたり、
運転席が狭すぎて昼寝に不便だったり、
クーラーが古すぎて使えないので、夏の間は窓を開けっ放しでマスクをして放射性物質を取り込まない
ようにして乗らざるを得なかったり、・・・・・・・、
 
 
 
まあ、文句たらしながら乗りまわしていた私ですが、会社にとっても私にとっても
日銭を稼がせてくれた大事なダンプです。
 
 
林業も児童デイケアも休業中の現在では、お金を稼がせてもらえる本当に貴重な存在です。
 
高圧洗浄機も買ってたまには洗っていますけど、もうちょっと感謝しても良いかも
知れません。
私も使い方は荒い方なので。  
 
 
 
ダンプ運転中は替え歌を作ったりしています。
だから、ずっと運転していても、退屈はしたことないですね。
 
 
車検中、4~5日休んでもらいます。
たまにはダンプにも曲を贈ってあげましょう♪
 
 
いつもありがとう!
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南相馬市に欠けていること

南相馬市内を車で走っていると目につく光景がある。

平日昼間から満杯のパチンコ屋の駐車場。
ずっと張り続けられているお店屋さんの求人広告。

南相馬市の2/3ぐらいは30キロ圏内に入ることから、東電からの補償金を
もらっている家庭は多いだろう。

放射能漏れ事故を起こした東電は許せないし、その態度の傲慢さも頭に来ている。
東電には昔の生活に戻してくれと訴えたいし、その日が来るまで、今もこの先も
戦っていくつもりだ。

だけど、最近は別の虚しさを感じてしょうがない。

なんだか、東電からの補償金が入ることをいいことに仕事をしなくなった人が増えた
気がする。
平日昼間からパチンコ屋に行く人が増えた。

補償金は遊ぶためのお金なの?
震災や原発事故のストレスがあることはわかる。
それは僕もだって同じ。
そのお金は新しく生活を立て直すための資金に使わなければいけないのではないか?

だけど、あの3・15の原発事故からだってもう半年が過ぎた。
もう立ち直って、未来を作るために動き出さなくてはいけない時期だろう。

東電の補償金なんていつまで出るのかわからないし、避難準備区域が解除された
ということは、「10月からは補償を打ち切るから自力で生活してくださいね。」
と宣告されたのと同じことだと思う。
東電も金をたくさん持っているわけじゃないし、払いきれない分は国が面倒見るのかも
知れないけれど、国だって金があるわけじゃない。
いつかはもう払えませんという事になるだろう。

それに、ずっと支援を受け続けていたら南相馬市民はそのうち、日本国中を敵に回す
事になると思う。補償金の大半は東電のお金じゃなくて税金なんだから。
「いつまで私たちの税金に甘えて、自分で立ち上がろうとしないのか?」と。

みんながお金などで支援してくれる事は当たり前ではないし、他県から来たボランティア
の人達が僕たちのために色々とやってくれる事は決して当たり前の事ではない。
もしも、僕たちが彼らから受けた恩を返すのであれば、それは一刻も早く自力で立ち上がる
姿をみてもらうことだと思う。

決して「可哀想な市民」を演じ続けることではないはずだ。

子供をだしに使う親もいる。

先日、自分の子供が障害を持っているところに放射能被害を受けて困っていると
テレビや雑誌に出まくっている親を見た。
「私達は『被害者』です。だから助けてください。」という訴えはいつまで
国民の心に響くのだろうか?

本当に僕たちがしなくてはいけない事は、この放射線量下でも生き抜いていくために
お互いに協力し合い、どうにか健康被害を減らすための方法を知恵を絞り合っている
ところを見せる事だと思う。
今は困難な状態かもしれないけれど、それを克服していく努力は必要だと思うし、
そうでなければ周りの人たちや国民は理解してくれないと思う。

「がんばっぺ南相馬」は決して掛け声だけじゃない。

 

 

震災後記 救援物資を運んだ話 その2

埼玉県から南相馬市までは下道だと車で6~7時間かかります。

当時は高速が福島県では使えませんでしたのでほとんど下道を使いました。

雨が降りだしてきたので、途中の栃木のコンビニでカッパを買い込んだり
しました。

福島県に入るとみなに緊張が走ります。
冗談は出るものの顔は真剣さが抜けていません。

そこから飯舘村に入ったところで、小便をしたくなった人が出たので、
トイレ休憩を取りました。

「もりの駅まごころ」を使ったのですが、当時は真っ暗で異様な風景に
思えました。

今でもこの辺りは2μSV/h近くありますが、当時はもっと高かったんでしょうね。
思い出の場所となりました。(笑)

明け方3時ごろになって南相馬市の鹿島区の山中にある事務所に着きました。

そこで私達は別行動をとることになります。

社長と側近の人だけが残って、救援物資の運び出しや避難所の方々を
風呂に入れるための準備をすることになりました。

それ以外の社員は会社の車を持って、市内のアパートで最低限必要なものを
手に入れたら埼玉の社長宅に「とっとと戻れ」というのが社長の指示でした。

社員に余計な被爆はさせたくなかったんでしょう。

最初は救援物資の運搬も自分一人で行くと言い張っていた人ですからね。
それは全員の猛反対に合って頓挫しましたけどね。

私はアパートで少し寝てから同僚のM君と一緒に出発しました。

朝の9時ごろには出てしまいました。

よって、救援物資を運んだ様子はすべて社長から聞いた後日談でのみ
知ったことです。

当日は救援物資は原町区の避難所からは受け入れを拒否されました。
なんでも、物資はたくさんあるのでいらないとのこと。
私達は社長も含めて住んでいるのは原町区なので、できればこの地区の
役に立ちたかったです。

結局隣の鹿島区の避難所に持って行ったのですが、避難者が集まってきて
言われたのが、「これはもう食べあきたからいらない」というセリフの
数々・・・。

残りを知り合いに配ってもまだ余ってしまいました。

残ったレトルト食品などは社員が食べることになりました。
日持ちのしないもので後日捨ててしまったものもあります。

さて、入浴はみんな楽しみにしているのだろうなと思っていたら、
当初100人が来る予定が実際に来たのは30人。

しかも、風呂に入る段階になって、「私はあのおばあさんと一緒に風呂に
入るくらいなら入らない」「あのグループとは一緒に入りたくない」
と言われて結局風呂の利用者も数名程度。
避難所での生活がどうなっているのかよくわからないけど、「避難」という
緊急事態ぐらいは「みんなで力を合わせて」とか、思いやる風潮を育てて
欲しいものです。

私たちは、大げさだけど、今思うと笑い話かも知れないけれど、死ぬ思いをして救援物資を
運んできました。

だけど、この避難者の態度はなんなの?と非常にがっかりしました。

南相馬市はもともと「鹿島」と「原町」と「小高」の3地区が合併して
できた市で、それぞれの区内ではまとまりがあるものの、お互いの区同士
は仲良くありません。
議員さんも「自分の区」のためには動こうとするけれど、他の区のことは
軽視している傾向があります。

今回も議員さんを通じて救援物資を届ける段取りを組んでいたら、横やりが
入れられたそうです。「自分だけいい格好するつもりか?」なんて
足を引っ張られても、そんなのは「下衆の勘繰り」です。
色々な人と連携が取れればもっと避難者のニーズにあった対応の
仕方もできたと思うのですが、今回はできませんでした。

よってまとまりがないまま、連携プレーがないまま、ボランティアの
受け入れも拒否して市職員だけで避難者への対応を行った結果、
避難所以外に住む高齢者達は取り残されて非常に苦しい生活を強いられた
ようです。

各地から届けられた救援物資も「不公平になると文句が出るから嫌」
という理由のようで、数が揃わなければ避難所で配られなかったり、
「救援物資は避難所に住んでいる人たちのもの」という変な理論が
まかり通って、余っていても避難所以外に住んでいて食料に困っている
人たちには配られませんでした。

南相馬市には震災時のおかしなところ・不手際はたくさんあったと思います。

非常にがっかりしながらも良い勉強になった2日間でした。

震災後記 救援物資を運んだ話 その1

早めの判断で逃げたので、私たちは震災の苦労は一度も味わっていない。

埼玉県の社長の実家にお世話になりながら、社長と社員とで原発事故の分析を
ずっとやってきた。
報道はとてもじゃないけれど、全部を信用することはできなかった。
「どこまでがホント」で「どこまでがウソ」なのか、テレビやインターネット
や現地に残った人達とのやり取りを通じて自分達で分析してきた。
たまたま原子力に詳しい人が2人いたのも役に立った。

飯舘村は早急に避難するべきという見解も自分達は早々に出していた。
ドイツのシュピーゲルの情報で放射能拡散予測も事故後1週間後ぐらいには見ていた。

戻るべきか、福島を捨てて関東圏での再起をかけた動きを起こすべきか
ずっと考えてきた。

原発のニュースににらめっこして、侃々諤々しながらも生活は安穏だった。

衣食住は社長の実家が全部面倒を見てくれた。

一緒に逃げてきた社長の3人の子供達と遊ぶのも楽しかった。

だけど、何かが違う・・・・。

自分達だけが平和な暮らしをしていることにストレスを感じはじめていた。

新入社員は1月末に福島に引っ越してきた人ばかりだから、知り合いも
少ないし福島への愛着はそんなに強くないけれど、社長をはじめ、福島県に
長い間住み続けた人はお世話になった人も多い。
「地元に残った人間は食料が無くて苦しんでいる。自分達だけが安穏な
生活を送っていて申し訳ない」という気持ちをずっと持っていた。

特に南相馬市原町区は「屋内退避地域」になったため、放射能にびびった
運送トラックが入ってこなくなり、「陸の孤島」になってしまった。
ガソリンも無くなって来たので、避難も出来ないし、食料を遠くに買いに
いくことさえ出来ない。
たまにガソリンが入って来ると、それを手に入れるのに長蛇の列ができて、
結局ガソリンを手に入れられずに帰ってくることになり、残ったガソリンも
どんどんなくなっているのが現状だった。

現地の人の声を聞くと「米と水はふんだんにある。」「それ以外の食料は
何もない。」ということだった。

私達の安穏な生活がストレスになり始めていた原発事故後10日間が過ぎた
頃になり、多少の被爆は覚悟してでも救援物資を届けに行こうということに
なった。

会社において来た数台の車を埼玉に持ってきて、もしもの場合に関東圏で
仕事を再開させようという思惑もあった。

社長はうちの現地の人と連絡を取り、必要な物資や受け取り方法などを決めた。

現地の情報から、食料に困っているのは避難所ではなくて、残された個人の
住宅(特に老人だけの世帯)だとわかっていたが、個人のお宅を回るのは
やめてくれと市の方からお願いされました。

市職員も避難した人が多く、今残っている市民たちの管理だけで手一杯
なので、避難所に救援物資を届けたら早々に帰ってほしいとのことでした。

たとえば、市の知らないところで再び生活を始められて、水道漏れや火事や
事故が起こっても消防隊自体が解散してしまったので対応が難しくなる
とのことでした。

そして、避難所に救援物資を配ることと、避難所の人たちは10日間も
風呂に入れていないので、うちの会社は6人ぐらい一緒に入れる風呂が
あるので、そこに希望者を入浴させるということまで決まりました。

議員さんが動き回ってくれて、100名の希望者があったようです。

放射線量が高くなるとされる雨の日を避けて行く日にちを決めて、
いよいよ埼玉県のスーパーを回ってみんなで買出しに行きました。

その頃は関東でも買占め騒ぎがあり、何件も回って品をそろえました。
社長が一人で出した30万円分の食料をかき集めました。
主におかずや麺類や野菜などですね。

それをマイクロバスに詰め込んでいよいよ出発です。

正直怖かったです。

というのも、埼玉県から南相馬市に行くためには飯舘村を通る必要が
あったからです。

遠回りすれば回避できるのですが、時間がかかりすぎてしまいます。

当時はガイガーカウンターを持っていませんでした。

同行した人たちはみなマスクを2重にして、間にウエットティッシュを
挟むという念の入れようでした。

今から思えば笑い話かも知れませんが、その時はみんな
「死んでも前に進む」という覚悟があったような気がします。

車の通りの少ない夜間を選んで、私達のマイクロバスは福島へと
向かっていきました。

 

震災後期 <震災2日目>

朝方に社長から連絡があり、今日は地震が収まらないので仕事はないとの
ことでした。朝から携帯がほとんどつながらない状態なのが困りました。
(前日まではつながったりつながらなかったりでしたが、割と使えました。)
私と同じ同期が二人いるのですが、仕事中止の連絡網が回せずに困って
いました。
とりあえず、いつもの時間に仕事車のおいてある駐車場に行き、同期の二人が
やって来るのを待っていました。みなが顔を合わせると、電気とガスは使えるけど水道は使えなくて困った
という話になり、鹿島地区の新事務所に水をもらいにいこうという話に
なりました。
2ヶ月前に鹿島地区に移転した事務所は山の中にあり、井戸水を使用して
いるのを思い出したのです。

各自が空のペットボトルを大量に集めて持ち寄り、鹿島の新事務所に向かいました。

事務所に着くと社長が待っており、すぐに事務所においてある重機やバス
などのすべての車の燃料と灯油のポリタンク全てを満タンにするように申し付けられました。
(当社は林業だけでなく、知的障害児のデイケア施設を併設しているため
マイクロバスなど送迎用の車も多くあるわけです。)
今回の地震でガソリンが最低1週間は入って来なくなるだろうというのが
社長の予想でした。

そこでガソリンが不足している3台の車を給油しに、原町区の行きつけの
スタンドに行きましたが、朝8時ごろなのにすでに渋滞になっていました。
渋滞とは言っても15分も待たずに買えたので、その後の大渋滞と比べると
かわいいものでした。ガソリンは20Lまでしか買えませんでしたが。
(後から知ったのですが、このガソリン灯油満タン作戦は、後から逃げ出したい人が出たときに
車から抜いて持っていってもらおうという意図もあったようです。
実際にこれは役に立ちました!灯油は100L以上あったのが全部使われたようですし、
ガソリンも何人かが抜いていかれたようです。)

事務所に戻ると、普段できない大工仕事などを手伝っていましたが、
夕方になって水素爆発を起こした福島第一原発からの避難勧告の圏内の
距離が少なすぎるのではないかという疑念を持たれた社長の強い統率の
もと、「念のために」職員を社長の実家にある埼玉県に避難させることになりました。

「政府の発表はおかしなところがあって、信じられない。思い過ごしかも知れないが、
自分の勘が当たっているかも知れない。もしもお前らが俺の事を信じる気持ちがあるなら、
ついて来い。一旦避難しよう。」という社長の言葉に反対する人はいませんでした。
 
 
一度アパートに戻って簡単な着替えを持って事務所に戻り、夜9時半には
全員がマイクロバスに乗って埼玉県に向かいました。原発の近くは通り
たくないので、内陸の国道4号線をひた走ってきましたが、幸運にも
「早めの避難」を考えた人は少なかったようで、反対車線は大渋滞だった
にもかかわらず、前にほとんど車がないような状態でひた走り、翌朝の
4時ごろには埼玉の社長の実家にたどりつきました。
どっと疲れが出たみんなは、部屋に入って眠りこけました。
 

震災後記 <震災1日目>

3月11日の震災からもう半年以上が過ぎました。
今思うとあっという間です。
ここで改めて震災当時のことを振り返ってみたいと思います。

私は林業に就いて、震災の1ヶ月半前から福島県南相馬市の原町区に
居を構えておりました。ここは福島第1原発から30Km圏内にあります。

3月11日の15時ごろ原町区の山の中で仕事をしておりましたが、
ちょうど切り出した丸太の集積作業に従事しており、数十本の丸太の山の
中腹にいました。

大きなゆれを感じて「丸太が崩れたら死ぬ」と咄嗟に思い、複雑に重なり
あった丸太の山を下に下りるのはかえって危険と判断し、頂上まで上って
中腰四つんばいの姿勢になり手足に神経を集中させて、もしも丸太が崩れた
場合に自分が一緒に落ちないように気を払っていました。

数分間突き上げるような揺れが続いていましたが、丸太は1本も崩れること
なくどうにかやり過ごすことができました。

強い揺れの数分前に近くの池が濁ったことを仲間は見ていました。

親方の判断でその日の仕事は中止して各自の家に戻りました。

私の家は大きな本箱がひとつ倒れただけで済みましたが、周囲の人は
みな部屋がめちゃくちゃになってすごかったようです。

私のアパートは国道6号よりも内陸にあり、津波の被害は全くなく、
外壁など一部が損壊した家も周りに数件ある程度でした。

その日の夜は断続的な強い揺れを感じながら、本が散乱した部屋の中で寝る
ことになりました。水道が止まったことが唯一の悩みでしたが飲料の備蓄は
あったので大きくは心配さえしていませんでした。

テレビを持っていなくて情報が入ってこなかったせいか、大きな恐怖心は
なく、「そのうち地震は収まるだろう」としか考えていなく、次の日も
仕事に行くつもりでいました。
続く揺れに不安を感じながらも、その日は就寝しました。

 

 

信念を曲げない

先日、福島市で知り合った地平線会議の江本さんに誘われて、東京四谷3丁目の事務所に
行って来ました。
途中で電車を乗り間違うハプニングがあり、30分も遅刻してしまいました。
地平線会議とは探検・冒険する日本人を支援する目的で設立された団体です。

今度の10月22日にここで開かれる月1回の会議の席で、福島県や南相馬市の現状を
話して欲しいという依頼を受けたので、その下打ち合わせと、「チェルノブイリの今」
という高世仁というジャーナリストが作ったドキュメンタリー映画のDVDを見に行くのが
目的です。
まず、このDVDが良かった。現在のチェルノブイリ周辺の子供達が苦しんでいる姿が
将来の福島県の子供達の姿にかぶるような、そんな気がしました。

その後、色々と話をしたのですが、江本さんから聞かれたことが、
「今後、何をしたいですか?そして福島の子供達に対してどう思っていますか?」
そして僕が答えたのが、「1億円が欲しい。」

何に使うかと聞かれたのでこう答えました。
「山形や新潟など放射線量が低い所に廃校や廃ホテルなどの施設を買い取り、
毎週末福島の子供を連れてきて、思いっきり遊ばせたい。移動するためのバスも必要。
そのための費用に充てる。」

現在の福島はまだまだ放射線量が高く、至る所でセシウムやストロンチウムが検出
されています。
乾燥して埃が舞う季節になったので、放射性物質の付いた埃を吸い込んで内部被曝
する危険性との背中合わせの中で、子供達は外で思いっきり遊ばせられない状況に
あります。
子供達のストレスは相当のものです。
家遊びしかできなくて、テレビゲーム三昧の生活を送っているという声も聞きます。
悲しい事です。子供達はこの不自由な環境に対応してしまった・・・

夏に福島キッズで北海道に行きましたが、夏休みや冬休みだけでなく、できれば毎週
息抜き・放射線抜きをさせたい。
月曜日から金曜日までは窮屈な暮らしを我慢してもらう。
その分、土日はマスクを外して思いっきり遊んでもらう。
子供達の心のケアにもなります。

施設についても色々と迷いはあります。
正直なところ、線量の高い鹿島の事務所は閉鎖して、相馬市や新地町など線量がより
低いところに施設を移してあーすを再開できないものかどうか・・・・。

しかし、ここよりはずっと低いとしても、まだまだ年間1mSVには遠い数字です。
年間1mSVが保てなければあーすは再開しないというのが僕の信念です。
この信念だけは曲げたくありません。

あーすはまだ再開できないかも知れません。福島県の現状も安全だとは思っていません。
しかし、福島県の子供達が伸び伸びと遊べる場所づくりの夢を追いかけたくなりました。

もちろん、そのためのお金など持っていません。
お金もそうですが、色々な人たちの協力が無ければできない話です。
逆境ではありますが、なんとか実現させたい!